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コラム

レスリー・チャン追悼

レスリーの想い出

今全国のいくつかの映画館で、「君さえいれば」が上映中だ。6月30日までで、約8年間持っていた上映権の権利が切れるので、最後の上映をと思っていたら、思いがけない状況で、この映画が各地で上映されることとなってしまった。レスリーの自殺は、ファンの方々には相当なショックだったと思うが、私も彼の映画を配給し、来日の時にお世話した人間として、本当にやりきれない気持ちだった。
この映画を買い付けた時のことは、今でもはっきりと覚えている。今のようにまだ香港映画が日本で完全にポピュラーになっていなかったころ、私も香港映画をほとんど見たことはなく、興味もなかった。ハリウッドの映画にばかり、目が向いていた。しかしあるきっかけで、「金枝玉葉」と言う変わった名前の映画が持ち込まれ、配給できないか検討してほしいと言われた。あれは日曜日だったと思うが、休日に会社で事務の仕事をしながら、ビデオをかけてちらちらと横目で見ていたが、途中で見入ってしまい、いきなり続けて、3回見た。そして夜には、『これをやらなくてどうする?すごい映画じゃない?』と、即配給を決めた。ハリウッド映画のラブコメよりも良くできていて、これこそロマンチックコメディのお手本じゃない?と思った。しかもハリウッドのようなできすぎた作り物の気取りもなく、素朴で、キュートで、この映画を配給中に何度見たことだろう。見れば見るほど好きになり、我ながらなんていい映画を配給できるのだろう、と悦に浸っていた。
レスリーが歌うあの主題歌も何度聴いたことだろう。
その後この映画は、東京国際映画祭の招待上映作品となり、また香港との交流の行事の特別上映作品にも選ばれ、香港からこの作品の主演3人と監督のピーター・チャンが、来日することになった。4人の来日取材の取り仕切り、東京、大阪での記者会見やパーティ、盛りだくさんの仕切りが必要だった。はじめてレスリーと会ったときには、さすがスターであると思い、彼の自然なオーラを感じた。一緒に来日したカリーナ・ラウは少しすましたトップ女優だったし、アニタ・ユンはまだ少女のようでわがままだったが、レスリーは、みんなの実に良いまとめ役だった。いつもみんなの待ち合わせに必ず遅れないのが、レスリーだった。一番のスターであるのにきちんと時間厳守で、女優たちが遅れるのをさらりと注意したり、みんなをまとめるリーダーだった。監督のピーター・チャンもその頃はまだ新人で、レスリーを信頼しきっていた。今でも覚えているのは、東京の記者会見を帝国ホテルで行った時、会場にはジャーナリストに混じって香港からの追っかけファンも何人か来ていたことで、それをレスリーは我々に厳しくチェックさせ、関係者以外は会場に入れないようにときっぱり言ったことや、また記者会見の前に緊張している監督のピーターや他の二人の女優たちに対してみんなの肩を組んで、『さあ、みんな頑張っていこう!』と励ましてから、颯爽と会場に入ったことなどだ。あの時のレスリーの言動は今でもさすがスターだ、と私の記憶に強く残っている。しかも、スターとして偉そうなところは、まったく我々にも、最後まで見せなかった。むしろ気さくで、でも自然な輝きを持ち、彼の存在は、周りの空気を変えていた。約5日間の滞在で、東京、大阪で、記者会見を行い忙しい滞在で、その間一番多くの取材を受けたのもレスリーだった。しかしわがままな女優たちが、疲れたからと取材を嫌がったり、問題が発生するごとに、レスリーはさっと現れて、彼女たちをたしなめたり、我々配給会社と女優たちの間を取り持ったりと、とにかくレスリーは大活躍だった。東京での滞在中に、監督のピーターとレスリーとの間で、『金枝玉葉 2』の話が持ち上がり、その日は夜中までみんな部屋に集まって、アイデアを出し、ストーリーを考えたそうだ。実際続編が作られたのは、その何年か後だったが。超多忙なスケジュールをすべて終了した時、我々スタッフたちがレスリーと写真を撮りたいと頼んだ時も、『勿論!』ととても気安く、全員と1枚ずつ写真に収まってくれた、明るい笑顔のレスリーを、今でもよく覚えている。私にとって彼の思い出は、この来日の時と映画の配給のことだけだが、明るい笑顔の後ろに、やはり他の人には計り知れない悩みや苦労も持っていた本当に繊細な人だったのだと思う。今は彼の安らかな冥福を祈りたい。

(山中陽子)

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