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映画『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ  4K完全無修正版』
映画『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ  4K完全無修正版』

セルジュ・ゲンズブール 没後30周年
放送禁止となった愛の結晶
不朽の名曲が彩る恋愛映画の傑作がスクリーンによみがえる

1969年にリリースされた、セルジュ・ゲンズブールの代表曲で、ジェーン・バーキンとのデュエットソング「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」。
楽曲のリリース後、あまりにも官能的で大胆な内容に当時のローマ法王は激怒し非難。BBCやイタリア国営放送をはじめ、ヨーロッパのほとんどでは放送が禁止となった。それにも関わらず、イギリスでは外国語楽曲として初のシングル・チャート1位を記録。本国フランスや日本を含め、世界的に大ヒット。ラブソングの名曲として今なお愛され続けている。

映画『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』は同楽曲をモチーフに映画化された作品。映画音楽を手掛け、俳優として映画に関わっていたゲンズブールが初めてメガホンを取った。
舞台は、アメリカの田舎を彷彿とさせながらも、どことはわからない文明社会のゴミ捨て場。マイノリティが虐げられ、暴力が蔓延する世の中。そこに生きる、愛なしには生きることができない哀しい人々。随所に「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」のインストゥルメンタル版を使用し、愛の素晴らしさを美しく描き出した。
1975年のフランス公開時、ヌーベル・ヴァーグを代表する映画監督フランソワ・トリュフォーからは絶賛されるも、当時ロングヘアのイメージだったジェーン・バーキンが本作では短髪となったことはあまりに衝撃が大きく「ゲンズブールはバーキンをゴミ箱へ入れた」と酷評。また赤裸々な同性愛の描写ばかりが強調され、描かれた本質的な部分やユーモアは理解されなかった。イギリスなどでは、性表現のきわどさから上映禁止。日本でもすぐには公開されず、フランス公開から8年後の1983年に性的なシーンは修正の上、英語版で公開された。 一方で、1995年のリバイバル上映時には修正が加えられたものの、大ヒット。上映されるたびに多くのファンに賞賛されてきた本作が、ゲンズブール没後30年となる今年、待望の4K完全無修正版となり、オリジナル版で鮮やかに美しくよみがえる。

永遠のカリスマ ジェーン・バーキン
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華麗なる美男 ジョー・ダレッサンドロ
豪華競演

ジョニーを演じるのはジェーン・バーキン。今なお歌手、女優としても活躍。ファッションアイコンとして現在も絶大な影響を及ぼし、カリスマ的人気を誇る。ロンドン行きの飛行機で偶然隣り合わせた高級メゾン・エルメスの社長が、ジェーンとの飛行中の出来事からインスパイア。そしてバック<バーキン>が生み出されたエピソードも有名。寡黙ながら知的なクラスキーを演じるのは、ポップ・アートの旗手アンディ・ウォーホルに見出だされた美男スター、ジョー・ダレッサンドロ。

自身の人生を変えた存在、
ボリス・ヴィアンに捧げられた
ゲンズブール初監督作品

ゲンズブールは、本作を伝説的作家ボリス・ヴィアンに捧げた。 ヴィアンの代表作となった「うたかたの日々」(1947)は、フランスでは400万部を超える大ミリオンセラーとして、今なお読み継がれている。近年も、2003年に岡崎京子が同名タイトルで漫画化。2013年にはミシェル・ゴンドリーによって映画化されるなど、現代のカルチャーにも多大な影響を及ぼしている。ヴィアンは、小説家である一方、ジャズ・トランペット奏者、ジャズ評論家という顔も持っていた。1956年、ピアニストやギタリスト、バンドマスター、美術教師を経験した当時28歳のゲンズブールは、ボリス・ヴィアンのライブで感銘を受ける。その体験が作曲活動に挑戦するきっかけとなったと公言。ゲンズブールの偉業が始まる瞬間となった。

殺伐とした、暴力が満ち溢れた世界。
運命の愛は、すべてを超える―――。

トラックでゴミ回収を生業とするポーランド人のクラスキーと、イタリア人のパドヴァン。2人は、仕事仲間以上の強い絆で結ばれていた。ある日2人は、立ち寄ったカフェバーで、男の子かと見間違うほどのショートカットでボーイッシュな女の子、ジョニーと出会う。彼女は、飲んだくれでパワハラ気質の主人に反発しながらも、ほかに行き場もなく働いていた。その夜、クラスキーとジョニーはダンスパーティで意気投合。しかし、実はクラスキーはゲイだった。それでも惹かれ合う二人は身体を重ねるが…。

監督・脚本・音楽/セルジュ・ゲンズブール

1928年4月2日パリ生まれ。両親は内戦を避けてフェオドシア(ウクライナ)から亡命してきたロシア系ユダヤ人。父親はバーでピアノを弾いて家族を養った。6歳から父親によるピアノのレッスンを受けた。モンマルトルの絵画アカデミーを経て、セーヌ右岸のキャバレー<ミロール・ラルスイユ>でピアニスト、ギタリストとして活動。「リラの門の切符切り」(1957)でデビュー。ファーストアルバム「第一面のシャンソン」(1958)で、フランスのレコード大賞、アカデミー・シャルル・クロ大賞を受賞。「夢見るフランス人形」(1965)など、フランス・ギャルが歌った楽曲がヨーロッパ中で大ヒット。ジェーン・バーキンとのデュエット曲「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」(1969)は、世界的にセンセーショナルを巻き起こした。また1979年にはフランス初のレゲエ・アルバム「祖国の子供たちへ」を発表。国歌「ラ・マルセイエーズ」をレゲエ仕立てにアレンジした楽曲が波紋を呼んだ。ジャズ、マンボ、シャンソン、ポップス、ロック、プログレッシヴロック、レゲエ、エレクトリック、ディスコ、ファンクなどを自在に横断。様々なジャンルのアーティストによる影響を与え、カバーもされている。フランスを代表するシャンソン歌手ジュリエット・グレコに捧げられた有名楽曲「ラ・ジャヴァネーズ」(1963)も数多くカバーされており、近年もアカデミー賞を受賞したギレルモ・デル・トロ監督『シェイプ・オブ・ウォータ―』(2017)で使用。1988年には来日公演を果たした。
俳優や映画音楽の分野でも活躍。ミシェル・ボワロン監督『気分を出してもう一度』(1959)で映画初出演し、『唇によだれ』(1959)の音楽を担当。同名テーマ曲が大ヒット。また、アンナ・カリーナ主演のテレビミュージカル『アンナ』(1966)の音楽を担当。そして『スローガン』(1968)では主演。売れっ子CM監督の“セルジュ”を演じた。同作品でジェーン・バーキンと出会い、その後バーキンとは『カトマンズの恋人』(1969)や『ガラスの墓標』(1969)、『マドモアゼル a Go Go』(1973)などで共演。またクロード・ベリ監督「Je vous aime」(1980)では、カトリーヌ・ドヌーヴと共演。音楽も担当した。
映画監督としては『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』(1975)のほか、『赤道』(1980)、ジェーン・バーキンとの娘、シャルロット・ゲンズブールを主演に迎えた『シャルロット・フォー・エヴァ―』(1986)、『スタン・ザ・フラッシャー』(1990)を手掛けた。1991年3月2日、心臓発作により62歳で永眠。モンパルナス墓地に眠る。

撮影監督/ウィリー・クラント

1934年ベルギーのリエージュ生まれ。ジャン=リュック・ゴダール監督『男性・女性』(1965)やアニエス・ヴァルダ監督「Les creatures」(1966)に参加。セルジュ・ゲンズブールとは『ガラスの墓標』(1969)や、アンナ・カリーナ主演作『アンナ』(1967)。本作に加え、『赤道』(83)『シャルロット・フォー・エヴァ―』(86)で協働。近年はフィリップ・ガレル監督『灼熱の肌』(2011)、『ジェラシー』(13)に参加。 おじはドイツの撮影監督クルト・クラント。フリッツ・ラングやアルフレッド・ヒッチコック、ジャン・ルノワール監督作品など、無声映画時代からトーキー時代にかけて100本以上に及ぶ作品の撮影を手掛けた。

編集/ケヌー・ペルティエ

1935年、フランス出身。ルイ・マル監督『地下鉄のザジ』(1960)、『私生活』(1962)『ビバ!マリア』(1965)ロマン・ポランスキー監督「反撥」「袋小路」「吸血鬼」などのシナリオ・ライターとして有名なジェラール・ブラッシュ監督の初監督作品『薔薇色のロレーヌ』(1970)などに参加。

ジョニー/ジェーン・バーキン

1947年12月1 4日、ロンドン生まれ。父デイヴィッド、母ジュディ・キャンベルともに俳優。兄アンドリューは脚本家で映画監督。モデルから出発し、64年、パルム・ドールを受賞したリチャード・レスター監督作『ナック』で映画デビュー。初舞台の「Caving the Statue」で主演を演じたマイケル・クローフォードに紹介され、音楽を担当したジョン・バリーと66年に結婚し、娘ケイトを出産。1967年、出演したミケランジェロ・アントニオーニ監督作『欲望』がパルム・ドールを受賞。68年に離婚。その後、フランスに渡り『スローガン』(68)で共演したセルジュ・ゲンズブールと結ばれる。レコード、映画、レノマの広告、テレビと各メディアで共演し、センセーショナルな話題を提供。69年にはシングル「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」でスキャンダラスを巻き起こし、6年後、これをモチーフに描いた映画『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』でも話題となった。71年にはシャルロットを出産。80年「放蕩娘(日本未公開)」で同作監督のジャック・ドワイヨンと出会う。ゲンズブールとの同棲生活を終わらせ、82年にはルーを出産。84年にはジャック・ドワイヨン監督作『ラ・ピラート』で熱演を披露。セザール賞主演女優賞に初ノミネートする。87年にはパリのバタクラン劇場で初コンサートを開く。日本でも89年、92年に公演を行い、成功をおさめた。また映画での評価を確立し、セザール賞にも『悲しみのヴァイオリン』(86)で主演女優賞、ジェック・リヴェット監督作『美しき諍い女』(91)で助演女優賞の候補となった。91年、ゲンズブールと父、相次ぐ他界に衝撃を受け、ドワイヨンとの関係にも終止符を打つ。長らく沈黙が続いたが、93年にはカリエール作の2人芝居「恋のメモランダム」をピエール・アルディティと共演して評判となり、95年には「トロイの女たち」のアンドロマック役で故郷ロンドンのナショナルシアターにデビューを飾る。 1999年には野島伸司脚本・田村正和主演のTBSドラマ「美しい人」の主題歌に「無造作紳士(L'aquoiboniste)」が起用。日本限定で発売されたベストアルバム「ベスト」が30万枚の大ヒットを記録。2001年には、大英帝国勲章;オフィサーを授与される。2011年3月11日に起きた東日本大震災を受け、同年4月6日に来日し震災支援のチャリティーコンサートを開催。2017年には、セルジュ・ゲンズブールの楽曲をカバーしたアルバム「Birkin/Gainsbourg: Symphonique」を発表。来日公演を行った。2018年には、旭日小綬章を受章。

クラスキー /ジョー・ダレッサンドロ

1949年12月31日、フロリダ州ペンサコーラ生まれ。父はイタリア・カラブリア出身の海軍下士官。ロングアイランドのノースバビロンで育ち、ピザ屋、印刷業、タクシー運転手などの職を転々とする。その後ニューヨークで友人とアパート暮らしをはじめる。1500時間にわたる前衛映画「four stars」(1967)の撮影中のアンディ・ウォーホルと知り合い、飛び入り出演することになる。以来、『フレッシュ』(1969)、『トラッシュ』(1970)、『ヒート』(1972)と、ウォーホルの監督・製作作品に立て続けに主演。「ローリングストーン」誌は、1970年『トラッシュ』を「今年のベスト映画」と絶賛。「僕の映画では誰もがジョーに恋をしている」とウォーホルに言わしめ、若者文化やニューヨークのアートシーンにおいてスター的存在に。73年、ローマで撮影したポール・モリセイ監督作『処女の生血』(1974)で共演したステファニア・カジーニと出会い結ばれ、一女をもうけた。次第にカルト的名声を得て、本作をはじめヨーロッパ映画界にも進出。ルイ・マル監督『ブラック・ムーン』(1975)、ジャック・リヴェット監督『メリー・ゴー・ラウンド』(1981)に主演。一時期アルコール、ドラッグ中毒となるがフランシス・フォード・コッポラ監督作『コットンクラブ』(1984)のラッキー・ルチアーノ役で復帰。バイセクシャルであることを公言。2009年の第59回ベルリン国際映画祭では、参加作品を対象に部門の枠を超えて、LGBTQをテーマにした作品に対して与えられるテディ・アワード特別賞を受賞。また、イギリスのロックバンド、ローリング・ストーンズのアルバム「スティッキー・フィンガーズ」(1971)や、ザ・スミスのデビューアルバム「ザ・スミス」(1984)のジャケットを飾った。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのボーカル&ギターとしても知られるルー・リードの代表曲のひとつ「 Walk on the Wild Side(ワイルド・サイドを歩け)」(1972)の歌詞にも“リトル・ジョー”として登場。

パドヴァン/ユーグ・ケステル

1948年8月5日、メーヌ=エ=ロワール県生まれ。パリ交通運輸公社RATPに入社するが演劇に興味を持ち退社。働きながらパリの演劇コースを受講する。70年にパトリス・シェローと出会い、彼が演出した「リチャード二世」でオデオン座の舞台にデビュー。以来、舞台俳優としてシェローと、舞台「Toller」(73)、シャーロット・ランプリング主演作の映画『蘭の肉体』(74)で組む。セルジュ・ゲンズブールが音楽を担当したウィリアム・クライン監督・脚本作の『ミスター・フリーダム』(71)にも出演。そして『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』の出演で一躍知られることとなった。89年にはエリック・ロメールたっての願いで『春のソナタ』に主演。