バロック風の豪奢で陰鬱な、迷路のようなホテル。夜会服をまとった紳士淑女たちが、演劇やコンサートに無表情に身を沈め、いかさまゲームに興じ、人形のようにワルツを踊り、ナンセンスな会話を繰り返している。
そこに、ひとりの男がやってくる。
去年出会い、恋に落ち、そして1年後に駆け落ちする約束をした女をここから連れ出すために。しかし再会した女は、そのようなことは全く覚えていないと拒絶する。あなたの夢物語でしょうと。まるで、このホテルには過去など、はたまた恋や愛などという概念は存在しないかのように。
彼女は去年の出来事を忘れてしまったのか?忘れたふりをしているのか?それとも、男が嘘をついているのかー?だが、男には確信があるようだ。
彼女の夫と思しき男の視線をかいくぐり、去年確かに愛し合った事実を証明しようとする。
男は急いでいる。何度失敗しても語り続ける。
そんな男の言葉を聞くうちに、女の心にも徐々にためらい、動揺が生じてゆく。
声に抑揚が生まれ、今までと違うリズムで踊り始め、頬からは涙がこぼれる。
そして男に叫ぶ。
愛しているのなら、消えて−。
1959年、カンヌ。アラン・レネが、作家マルグリット・デュラスに脚本を依頼した初の長編映画『二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)』は、『夜と霧』(55)に続き、「政治的な理由」によって、時の政府の判断でコンペティション部門への出品が見送られる。 しかし、コンペ外での上映にも関わらず、ゴダールやリヴェット、ロメール、トリュフォーら若き映画人からは称賛の嵐。一大センセーションを巻き起こし、一躍【ヌーヴェル・ヴァーグ】の先駆者として、世界にその名を知らしめたアラン・レネ。 「スペクタクル(見世物)の演出家」を自認しているレネにとっては、タッグを組む脚本家が何よりも重要。次作はもっと過激に、映画の文法を破壊したいー。果たして、誰と組むべきか。
一方、それまでの小説で当たり前と思われていたルール全てに「アンチ」を突きつけ、戦後世界文学に革命的な地殻変動をもたらしたムーヴメント【ヌーヴォー・ロマン】の旗手として、文学界に名を轟かせていた作家アラン・ロブ=グリエ。ずっとあたためている欲望があった。映画を撮りたいー。 後に、監督デビュー作として結実する『不滅の女』(63)の脚本はすでに書き上げており、レネには自分の抱いていたテーマと共通したものを見出し、大きな注目を寄せていた。
アラン・レネ、アラン・ロブ=グリエ、ともに当時38歳。新しい時代に突入しつつあったそのうねりのど真ん中で、運命的なタイミングで出会ったふたりのアランは「全てについて意見が一致」し、即座に意気投合。人物像、心理描写、テーマ、教訓…といった従来映画で必要とされているはずの要素は最小限に剥ぎ取られ、映画のエクリチュールだけを使ってリアルな感情を呼び起こす、という空前絶後の作品づくりに挑む。 そうして誕生した映画は、またもカンヌ出品が見送られるも、ジャン・コクトーやジャコメッティなどの芸術家を始め、映画人・批評家・ジャーナリストから大絶賛、ヴェネツィア国際映画祭では最高賞にあたる金獅子賞を受賞。公開直後より、「ル・モンド」紙が観客の千差万別の感想をアンケートした特集を組むなどスキャンダラスな話題を呼び、半世紀を経た今なお、観るもの全てを異次元の道へと誘う、あらゆる相貌をたたえた映画芸術の到達点といえる名作となった。 映画だけでなく、アート全般に比類なき影響を及ぼし、破格の存在感で映画史に君臨しつづけている。
映画界においても、ジャン・コクトー、ジャン・ルノワール、ルイ・マル、ルキーノ・ヴィスコンティといった巨匠たちと交際し、ジャンヌ・モロー、ロミー・シュナイダーらスター女優の鮮烈な衣装をデザインし、スクリーンを比類なき輝きで彩ってきたココ・シャネル。 しかし、シャネルがその87年の生涯においてデザインした無数の作品の中でも、「シャネル・スタイルの記念碑的作品」、「ファッション業界に最も影響を与えたスタイル」と称賛されているのが、『去年マリエンバートで』のヒロイン、デルフィーヌ・セイリグが身にまとう衣装だ。 シャネルの原点回帰ともいえる、シンプルにしてエレガント、モダンにしてクラシカルなブラック&ホワイトのナイトドレス、ファーコート、バイカラーのパンプス&スツール、そしてパールのジュエリー。本作のために創られた美しいアイテムの全ては、映画が公開されるや、「ドレス・ア・ラ・マリエンバート」と呼称され、世界的なブームを巻き起こした。
また、女優としてだけでなく、近年ビデオアーティスト・フェミニズム運動家として再評価の機運が急速に高まっているデルフィーヌ・セイリグは往年のシャネルのメイク、ヘアスタイルを研究。その優雅で神秘的な佇まいは、若き日シャネルがよみがえった、という関係者からの驚嘆とともに、サイドに巻き髪を施したヘアスタイルは、ドレスと同様「マリエンバート・カット」という名称が与えられ、ブームとなった。 さらに、本作を鑑賞し、デルフィーヌ・セイリグに強烈に憧れたブリジッド・バルドーが、シャネルの邸宅を訪問し、劇中と全く同じブラックリトルドレスをオーダメイドで作ってもらったという逸話もあるほど。
公開50周年となった2011年には、故カール・ラガーフェルドが手がけた春夏のシャネル・コレクションにて「マリエンバート・スタイル」にインスパイアされたドレスやシューズとともに、舞台である幾何学的な庭園にオマージュを捧げた巨大セットが出現。本作のメモリアル・イヤーを、盛大に祝福。 そして、2018年にはシャネルの主導により、半世紀の時を経て、最高精細・最高解像度での4Kデジタル完全修復が実現。シャネルの華麗な衣装の数々が永遠の美しさをまとい、鮮烈によみがえる。
1932年4月10日、レバノン、ベイルートに生まれる。父は考古学者、母は言語学者ソシュールの姪、兄のフランシスは音楽家で、本作で音楽を担当している。幼少期は、父の仕事の都合で、ニューヨークとレバノンを行ったり来たりする。
フランスで、サン=テチエンヌの演劇学校でジャン・ダステ(ジャン・ヴィゴ『アタラント号』他)に、さらに1956年にはニューヨークに渡り、アクターズ・ステュディオで演技を学ぶ。ニューヨークで舞台や映画の端役で出演していたが、舞台を観劇したレネと出会い、1961年、本作のヒロインに抜擢され、一躍名声を得る。1963年、レネと再び組んだ『ミュリエル』では老けメイクで挑戦し、ヴェネツィア映画祭の最優秀女優賞を受賞した。その後も、フランソワ・トリュフォー『夜霧の恋人たち』 (68)、ジャック・ドゥミ『ロバと王女』(70)、ルイス・ブニュエル『ブルジョワジーの密かな愉しみ』(72)、フレッド・ジンネマン『ジャッカルの日』(73)など作家性の強い映画で重要な役で出演し、マルグリッド・デュラス『インディア・ソング』(75)、シャンタル・アケルマン『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン』(75)の女性監督の映画では主演を務めた。
併行して、舞台にも多数出演。映画関係では、ミロス・フォアマン演出の《恋のメモランダム》(72)、ファスビンダーが自身の映画を舞台化した《ペトラ・フォン・カントの苦い涙》(79)など。
また、フェミニズム運動にも積極的に関与し、ビデオ・アーティストのキャロル・ルッソプロスらと「服従しないミューズたち」なる団体を1975年に設立。76年にルッソプロスらと共同監督で、「マゾをミゾは船で行く」、「SCUMマニフェスト」(SCUM=Society for Cutting Up Men)を制作。77年から81年にかけてはジェーン・フォンダ、シャーリー・マクレーン、マリア・シュナイダー、ジェニー・アガター、アンヌ・ヴィアゼムスキーら有名女優に自らインタビューした「美しくあれ、そして黙れ」をつくった。2019年、リールの美術館LaMで、クリエイターとしての活動に焦点を当てた展覧会「不屈の女神たちーデルフィーヌ・セイリグ、映画とフェミニスト・ビデオの間」が開催された。
1990年10月15日、肺がんによりパリで死去。享年58。
1923年、8月20日イタリア、フィレンツェ生まれ。
舞台を中心として俳優・劇作家・演出家として活躍した。映画の出演作としては、ルキーノ・ヴィスコンティ『百夜』 (57)にナレーションに参加したほか、ジョセフ・ロージー『エヴァの匂い』(62)と『暗殺者のメロディ』(72)などに出演。
2008年5月28日、死去。享年92。
1920年3月11日スイス、ジュネーヴ生まれ。父ジョルジュ、母リュミドラともに舞台役者だった。両親の劇団への出演からキャリアをスタート。舞台を中心に活躍した。
映画の主な出演作に、『追想』(57)、『勝負師』(58)、『逆転』(63)、『パリは燃えているか?』(65)、『うたかたの日々』(68)、『ロバと王女』(70)、『インフェルノ』(78)など。
1990年7月21日、死去。享年71。
【プロフィール】
1922年6月3日、フランスのブルターニュ地方ヴァンヌで生まれる。喘息持ちだったため、あまり学校に通えず、母親が先生代わりとなった。海外から取り寄せるほど漫画に熱中し、やがて映画館通いを始める。トーキー映画が生まれた頃には、すでに無声映画を多く観ていたため、当初は馴染めなかったが、ジャン・コクトー『詩人の血』(31)をきっかけに、トーキーの魅力にとりつかれた。
1934年、12歳の誕生日にプレゼントで8mm映写機をもらい、映画を撮り始める。13歳で、犯罪活劇シリーズ『ファントマ』(13-14)の真似をした短編映画を作ったが、出来の悪さにひどく落ち込んだという。14歳の頃、プルースト「失われた時を求めて」を読み、大きな衝撃を受ける。
15歳の頃、ジョルジュ・ピトエフ率いる新劇の『かもめ』(チェーホフ)に触発され、役者を志望。1939年、独学で大学入学試験に合格する。
戦時中だったため、1940年にパリに移住し、俳優ルネ・シモンの演技コースで2年間通う。しかし、やがて関心は映画に傾いていき、1943年、21歳のときにIDHEC(高等映画学院)に入学し編集科で学ぶ。1945年、軍用劇団に参加し、ドイツ・オーストラリアの占領地帯を巡回した。
1946年、カンヌ国際映画祭で出会ったジェラール・フィリップと親しくなり、同じ家で生活しながら、彼を主演に初の16mm映画「人物鑑定の図式」を撮影するが、完成には至らなかった。映画業界では、編集技師・助監督としてキャリアをスタートしつつ、実験映画に携わるなかで。記録映画に強い関心を持つようになる。1947年、画家のアトリエを訪ねたシリーズ16mm短篇に取り組んだ後、「ヴァン・ゴッホ」で米アカデミー賞短篇映画賞を受賞。以降、「ゲルニカ」「ゴーギャン」(50)といった美術映画を続けて手掛ける。この後、3年の歳月をかけ、第4回ジャン・ヴィゴ賞も受賞したクリス・マルケルの共同監督「彫像もまた死す」(53)、当時写真家だったアニエス・ヴァルダの長編デビュー作「ラ・ポワント・クールト」(54)で編集を務めるなど、ヌーヴェル・ヴァーグ誕生前夜、先駆的な活動を続けた。
1955年、アウシュビッツ強制収容所を世界で初めてカメラにおさめた『夜と霧』は、政治的な理由でカンヌ国際映画祭のコンペの出品が取りやめになるなど、センセーショナルな話題を呼ぶ一方、内容は高く評価され国際的にアラン・レネの名が知られるようになった。
1959年、マルグリット・デュラスに脚本を依頼し、広島を舞台にした『二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)』も、おなじく「政治的な理由」によってカンヌのコンペへの出品が見送られるも、批評家やジャーナリスト、ゴダール、ロメール、リヴェットら若き映画人には衝撃とともに絶賛の嵐を受け、一躍ヌーヴェルヴァーグ<左岸波>の旗手となる。
1961年、続く本作では、デュラスに続いて<ヌーヴォー・ロマン>の作家アラン・ロブ=グリエ脚本による本作で、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞。
以後、本作に続いてヒロインに起用したデルフィーヌ・セイリグにヴェネツィア国際映画祭主演女優賞をもたらした『ミリュエル』(63)、ルイ・デリュック賞を受賞した『戦争は終わった』(66)、クリス・マルケル企画によるオムニバス映画『ベトナムから遠く離れて』(67)など精力的に活動するも「ジュテーム、ジュテーム」(68)を最後に、五月革命などの影響で映画製作からしばらく離れる。
1974年、ジャン=ポール・ベルモンドを主演に迎えた『薔薇のスタビスキー』で本格復帰、商業的にも成功を収める。『プロビデンス』(77)はセザール賞7部門で受賞。『アメリカの伯父さん』(80)は、カンヌ国際映画祭でグランプリと国際批評家連盟賞を受賞した。 1983年の『人生は小説なり』では、サビーヌ・アゼマとアンドレ・デュソリエが初参加。この頃より、『メロ』(86)はじめ戯曲を原作とする作品が増え、シャンソンの名曲で構成された『恋するシャンソン』(97)は構成された『恋するシャンソン』(97)は、レネ最大のヒットとなった。2006年「6つの心」では第63回ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞(監督賞)を受賞。2009年の『風にそよぐ草』では第62回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞するととともに、「カイエ・デュ・シネマ」誌の年間ベスト1位に輝いた。遺作となった『愛して飲んで歌って』(14)は、レネ91歳の作品で、2014年のベルリン国際映画祭のコンペティション部門に出品され、通常若手が受賞するアルフレッド・バウアー賞を受賞。
2014年3月1日、ベルリン国際映画祭の閉幕から2週間後、パリで死去。
【フィルモグラフィー】
1948年 「ヴァン・ゴッホ」Van Gogh 短編
1950年 「ゲルニカ」Guerunica 短編
1950年 「ゴーギャン」Gauguin 短編
1953年 「彫像もまた死す」
Les Statues meurent aussi
短編/クリス・マルケルと共同監督
1955年 『夜と霧』
Nuit et brouillard (1955年) 短編
1956年 「世界のすべての記憶」
Toute la Memoire du Monde 短編
1958年 「アトリエ15の記憶」
Le Mystere de l'Atelier 15 短編
1958年 「スティレンの唄」
Le Chant du Styrene 短編
1959年 『二十四時間の情事』
Hiroshima mon amour
1961年 『去年マリエンバートで』
L'Année dernière à Marienbad
1963年 『ミュリエル』
Muriel ou Le temps d'un retour
1966年 「戦争は終った」
La Guerre est finie
1967年 『ベトナムから遠く離れて』
Loin du Vietnam オムニバス
1968年 「ジュ・テーム、ジュ・テーム」
Je t'aime, Je t'aime TV5MONDE放映
1972年 「西暦01年 」
L'An 01
(ジャック・ドワイヨン作品、部分監督)
1974年 『薔薇のスタビスキー』
Stavisky...
1977年 『プロビデンス』
Providence
1980年 『アメリカの伯父さん』
Mon oncle d'Amérique
1983 年 「人生は小説なり」
La Vie est un roman (1983年)
1984年 「死に至る愛」
L'amour à mort
(1984年)特殊上映、TV5MONDE放映
1986年 『メロ』
Melo
1989年 「お家に帰りたい」
I Want to Go Home
1991年 「忘却に抗って-命のための30通の手紙」
Contre l'oubliオムニバス
1992年 「Gershwin」TV
1993年 「スモーキング/ノースモーキング」
Smoking/No Smoking
1997年 『恋するシャンソン』
On connaît la chanson
2003年 『巴里の恋愛協奏曲』
Pas sur la bouche
2006年 「六つの心」 Cœurs
2009年 『風にそよぐ草』
Les Herbes folles
2012年 「あなたはまだ何も見ていない」
Vous n'avez encore rien vu
2014年 『愛して飲んで歌って』
Aimer, boire et chanter
【プロフィール】
1922年8月18日、フランス、ブルターニュ半島の軍港都市ブレストで、第一次世界大戦に従軍した「右翼的」な父、文学に親しむ母のもとに生まれ、まもなく一家でパリに移る。
42年、ドイツ軍占領下のパリで国立農業技術専門学校に進学。同年、同級生全員とともにドイツ軍に徴用され、ニュンベルクの戦車工場で、旋盤工として強制労働に従事するが、リウマチにかかりパリの病院に移送される。
1945年、国立統計経済研究所に就職し、「短期経済動向研究」誌の編集に携わる。48年、同研究所を退職し、姉が勤めていた、ホルモンと人口受精の研究を行う生物学研究所に勤務。ここで、はじめての小説『弑逆者』を書き始め、ガリマール社に持ち込むが、本人から直接「読者はいないでしょう」と出版を拒否される。1年を経ずして研究所を退職し、植民地果実柑橘類研究所に農業技師として就職。バナナ農場監督官として、生物学と統計の分野を担当。その後、アフリカのモロッコ、ギニア、フランス領の西インド諸島、グアドループ、マルティニークに滞在する。
1951年、マルティニークで発病し、フランスに帰国する船中で『消しゴム』を書き始める。帰国後同研究所を退職、パリの実家に戻り、『消しゴム』の執筆に打ち込む。夏、トルコ旅行に行き、後に妻となるカトリーヌ・ルキスタンと出会う。
1952年、完成した『消しゴム』をエディオン・ド・ミニュイ社に持ち込み、ジェームズ・ランドン社長と意気投合、翌年同社より刊行し、ロラン・バルトらに絶賛され、新たな文学運動<ヌーヴォー・ロマン>の旗手として一躍注目作家となる。エディオン・ド・ミニュイ社の原稿審査も担当するようになり、間もなく文芸顧問に就任する。以後30年間にわたって文芸顧問を務め、サミュエル・ベケット、ミシェル・ビュトール、クロード・シモン、ナタリー・サロート、マルグリット・デュラスらの同社からの刊行を支援し、<ヌーヴォー・ロマン>の立役者としても活躍する。
1955年、『覗く人』を敢行。ジョルジュ・バタイユ、モーリス・ブランショらの絶賛を受け、批評家賞を受賞。続けざまに『嫉妬』(57)、『迷路の中で』(59)を発表。57年には、カトリーヌと結婚。彼女は前年に、ミニュイ社からポルノ小説「イマージュ」をジャン・ド・ベルグのペンネームで発表、発禁処分を受けた。ロブ=グリエもポーリーヌ・レアージュの名を騙って前文を寄せた。
1961年、本作のオリジナル脚本を執筆し、映画界にデビューする。翌年には大映製作、市川崑監督の日仏合作映画『涙なきフランス人』の脚本のオファーを受け執筆、来日するも製作は頓挫し、幻の映画となった。日本からの帰路、香港に立ち寄り『快楽の館』(65)の着想を得る。
1963年『不滅の女』で映画監督としてデビュー、ルイ・デリュック賞を受賞。同年、批評集『新しい小説のために』を発表、理論的にも<ヌーヴォー・ロマン>のリーダー的存在となる。65年には第13回カンヌ国際映画祭で審査委員を務め、『ヨーロッパ横断特急』(66)、『嘘をつく男』(68)、『エデン、その後』(70)、『快楽の漸進的横滑り』(74)、『危険な戯れ』(75)と続けざまに自ら監督を務めた映画を発表。1968年、アラン・レネ監督「ジュ・テーム、ジュ・テーム」に出演。
1978年、アテネ・フランセ文化センターで「ロブ=グリエ映画祭」が開催され、来日する。80年にはブリュッセル大学の文芸社会学研究所長に就任し、87年まで務める。85年に東京で開かれた第47回国際ペン大会に出席し、「断片化と物語――作家は真実の担い手にあらず」と題した講演を行った。
1986年、第43回ヴェネツィア国際映画祭で審査委員長を務める(エリック・ロメール『緑の光線』が金獅子賞を受賞)。96年、来日。NHK特集「ヌーヴォーロマンの新しい可能性」に出演。日仏学院でも講演を行った。
2000年、プルースト『失われた時を求めて』原作のラウル・ルイス監督「見出された時」に、作家エドモン・ド・ゴンクール役で出演する。
2004年にアカデミー・フランセーズの会員(席次32)に選出されるも、時代遅れの制度だと主張し、一度もアカデミーの席に座ることはなかった。2008年2月18日、心臓発作で死去。享年85。
【フィルモグラフィー】
1963年 『不滅の女』L'Immortelle
1966年 『ヨーロッパ横断特急』
Trans-Europ-Express
1968年 『嘘をつく男』L'Homme qui ment
1970年 『エデン、その後』L'Eden et après
1971年 『Nは骰子を振った…」
N. a pris les dés...
1974年 『快楽の漸進的横滑り』
Glissements progressifs du plaisir
1975年 『危険な戯れ』Le Jeu avec le feu
1983年 『囚われの美女』La Belle Captive
1995年 「狂気を呼ぶ音」
Un bruit qui rend fou
ディミトリ・ド・クレールと共同監督
2007年 『グラディーヴァ マラケシュの裸婦 』
C'est Gradiva qui vous appelle
【著作】
■シネロマン
1961年 『去年マリエンバートで』
1963年 『不滅の女』
1977年 『快楽の漸進的横滑り』
2002年 「グラディーヴァ マラケシュの裸婦」
■小説
1949年 『弑逆者』
Un régicide
1953年 『消しゴム』
Les Gommes
1955年 『覗くひと』
Le Voyeur
1957年 『嫉妬』
La Jalousie
1959年 『迷路のなかで』
Dans le labyrinthe
1962年 『スナップショット』
Instantanés
1965年 『快楽の館』
La Maison de rendez-vous
1970年 『ニューヨーク革命計画』
Projet pour une révolution à New York
1976年 『幻影都市のトポロジー』
Topologie d'une cité fantôme
1978年 「黄金の三角形の思い出」
Souvenirs du Triangle d'Or
1981年 『ジンーずれた敷石のあいだの赤い穴』
Djinn
1985年 『戻ってきた鏡』Le Miroir qui revient
1988年 「アンジェリックもしくは蠱惑」
Angélique ou l'enchantement
1994年 「コラント伯爵最後の日々」
Les derniers jours de Corinthe
2001年 『反復』La Reprise
2007年 「ある感傷的な小説」
Un Roman Sentimental
■評論・エッセイ
1963 年 『新しい小説のために』
Pour un Nouveau Roman
2001年 「旅人」
Le voyageur, essais et entretiens
- そこでは誰もがフランス語など喋っているが、マリエンバートとは国籍不明の土地だ。正装している男女も、それがいつのこととはまるで推察させない。
これは、どこでもない時代のどこでもない場所で演じられる、意味を欠いた必死の演技なのだ。その裸のフィクションのつきぬ魅力を満喫しよう。蓮實重彦
映画評論家 - シャネルとレネの優雅なコラボレーションの背後で、ロブ=グリエのイメージは、見る者と読む者がいるかぎり、たとえばスペインの若い映画作家ホセ・ルイス=ゲリンの『シルビアのいる街へ』に反響し、世紀と空間を越えてネルヴァルの夢の速度に追いつき複数の不滅の女たちに出あう。かつて、カフカが滞在した保養地、あの、マリエンバートで―
金井美恵子
作家 - どんな歴史的な名作よりも素晴らしい、揺るぎない「永遠」の愛がここにある!
オレはコレだけを信じて生きてくよ!ありがとう!
中原昌也
ミュージシャン、作家 - これこそが倒錯の映画。出口なき時間と空間の迷宮に閉じ込められて空回りを続ける欲望の劇。
映画としても文学としても今なお先鋭的な、いや現在の目で観るからこそいっそう先鋭的な歴史的名作だ。
千葉雅也
哲学者 - 美しすぎる記憶の錯綜、迷宮としての美しいホテル、絶え間ないオルガンの美しい不協和音、美しいシャネルの服と美しいモノクロ撮影、美しい俳優と女優に、美しいほど難解な原作小説。あらゆる美しさの贅を尽くして出来上がった、世界そのもののような、誰にも指一本触れられない厳格な存在性。
そして、4Kデジタルリマスタリングで蘇ったのは、驚くべきことに、シャネル・ムーヴィーとさえ言える、映画史上最も贅沢な、二度と作られることのないオートクチュールの広告動画。菊地成孔
音楽家/文筆家 - 「難解な作品」の代名詞のような映画だが、その言葉はこの美しい迷宮のような作品を秘密にしたい人々の陰謀のように思える。
彫像のように凍りついた黒いドレスの女たち。タキシードの男たち。テーブルの上で展開するゲーム、銃声、シャンデリア、囁き声。曖昧で残酷な恋の記憶。透明な羽のようにシフォンのドレスをなびかせる完璧なショートカットのデルフィーヌ・セイリグ。
私だって秘密にしておきたい。
山崎まどか
コラムニスト - 実験的な映画と言っても、貧乏臭さとは対極的で、全篇に亘る豪奢なエレガンスが見る者を魅了する。過去と現在、夢想と現実、無意味と意味の狭間を漂うミステリアスな官能性。
シャネルの衣装を完璧に着こなすデルフィーヌ・セイリグの美しさよ!平野啓一郎
小説家 - レネ晩年の作もロブ=グリエの監督作も過去になった未来にいて、再びこの迷宮へ入城する。
38歳の2人のアランの夢想を、女は高笑いで聞き、真顔で睨み返すべきだろう。
彼らは願う。永遠の!未然の恋を!町山広美
放送作家 - 衣裳の暗い記憶、衣裳の過去の呪縛。
ココ・シャネルによって、『去年マリエンバートで』は、痛みを封じ込めた<シネマ・マネキン>として永遠化された!男たちは仕えただけである。
滝本誠
去年ロープ=グリエに囚われの美男、
現在ゲーリング女装愛研究者 - あのように出会った。このように出会えた。いまだ出会っていない。もはや出会っている。
取り返しのつかないことを忘れて演技、生き延びのないものたちの呆けた問答。
前進することも後退することも立ち行かず、恋の稽古をくりかえすようにして、歴史の真空地があらわになれば。影は差さない。風が吹く。五所純子
文筆家 - キリコの絵のような永遠のなかで展開する神秘のラブストーリーか、すべてが虚偽の人工世界を舞台とする手の込んだ詐欺話か。これが<世界一難解な映画>の真実を見きわめる最後のチャンスになるだろう。
中条省平
映画評論家