マダム・山中の「巴里の空の下」
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『遺作『父よ』で人生の精算をして逝ったジョヴァンニ監督を偲んで』 |
私が『父よ』(Mon Pere)を初めて見たのは2001年ベルリン映画祭での試写のときだった。先に見た映画がつまらなかったので、隣の試写室でやっていたものを、フランス映画でタイトルが簡単、それ以外は何の予備知識もなく入った。5分ほど始まっており、いきなり刑務所の場面で「あー、暗そうな映画」と思いすぐ出るつもりでいたのだが、きちんと計算されたカードル、演出のつぼを抑えた映画的なシーン、そして役者たちのリアリティある演技に引き込まれ、「これはまるで古きよきフランス映画みたい、まるで懐かしいフィルムノワールの世界がよみがえったみたい、いったいこんな映画を今作った監督は誰かしら」と思いながら、結局ずっと見入ってしまった。そして、最後の5分でこの物語りが実話であり、この話の主人公が映画史に残る名作『穴』の原作・脚本のジョゼ・ジョヴァンニ自身だとわかったとき、大きな感動が湧いた。感動的で琴線に訴える映画だった。そして私は試写室を出るなり(試写室には3人ぐらいしかいなかったが)すぐにセールス会社のもとへ行き、この映画を日本で配給したい意思を伝え、買い付けを決めた。セテラの東京のスタッフは最初「セテラがフィルムノワールですか…?」と驚いていたが、すぐにみんな興味を持ってくれ、興行会社も決まり、日本公開の条件が整った。当時79歳のジョゼ・ジョヴァンニ監督は、フランスでの公開のときも精力的に先行上映会や試写室での上映に立会い、私はすぐに監督と何度か会う機会をもてた。監督は79歳とは思えないほど若々しく元気で、まるで広告塔かというくらい、何故か必ずLACOSTEのポロシャツかセーターを着ていた。監督の出演するインタヴューのTVや雑誌を見ても必ずLACOSTEを着ていたほど、徹底していた。そしていつも夫人のマダム・ジョヴァンニを伴っていた。彼女はとてもしっかりとしたマネージャーでもあり、公私共に良きパートナーという印象を受けた。
ジョヴァンニ監督は映画の中で描かれているように、22歳で死刑判決を受け、11年監獄で過ごした経験のある人。そんじょそこらではお目にかかれない筋金入り、本物のマフィアの世界を知っていた人だ。22歳で死んでいたかもしれない人間の人生は我々が想像できない奥の深さと意味深さがあったと思う。それらは彼の(元気でエネルギッシュではあるが)人を鋭く見つめる印象深いまなざしに現れていた。
監督は日本通で、昔台詞を担当した映画(『Du Rififi a Tokyo』63。今年亡くなったジャック・ドレー監督作品)の日本撮影に同行、数ヶ月滞在した経験もある。また70年代には彼の映画が公開されるたびに来日しており、今回約20年ぶりの劇場公開作品のため、そして彼にとって人生の遺言ともいえる内容であるこの映画のためにぜひ来日を、と希望していた。我々も彼にとって犯罪作家人生の最初の作品であり『父よ』の前作ともいえる『穴』も併せて上映する記念試写会を、監督の舞台挨拶付きで企画した。しかし試写会の準備たけなわという時に、監督が骨折したという知らせが入り、来日中止となってしまった。不屈の精神を持つ監督は何としてでも来日を、と希望したのだが、ドクターストップがかかり、夫人は病院からおろおろする声で、来日を中止せざるを得ない旨を伝えてきた。いろいろ準備していた我々も残念だったが…。とにかく私はその翌月、監督とパリで再会した。監督は杖を突いてだが、すでに歩き始めている驚くべき回復力で、翌月か翌々月には日本に行けるくらいに全快するだろうから、また『穴』と『父よ』の2本立て特別上映会を企画してくれ、と相変わらず熱心にプロモーション来日を希望していた。我々も今度こそ、と再度上映会を企画したのだが、またもや直前になって先の骨折のため12時間のフライトに医師の許可が降りず、監督は泣く泣く来日をあきらめたのだった。我々も2度の来日中止に相当がっかりしたのだが、やはり一番がっかりしたのは監督本人であったろうと思う。この映画のために全精力をかけていたと見受けられたからだ。監督は代わりに来日した、監督の分身を演じた主演俳優ヴァンサン・ルクールに手紙を託し、その内容は日本での試写会のときに会場で読み上げられた。結局二度も準備を狂わされたことになるのだが、それでもその後パリで監督と会い、その思いつめたような深い目を見ていたら、何でも許す気持ちになってしまうのだった。監督はその後3ヵ月後、ちょうど日本公開の直前にも、まだ来日できると言っていたのを思い出す。このときばかりは大事をとって、もう来日していただかなくて結構です、と丁重にお断りしたのだが…。
私はこの後、パリで監督が最新著作のお披露目するときに呼んでいただいた。このときも相変わらず精力的に雑誌のインタヴューに答えたあと、監督の映画人生の思い出やエピソードを書いたこの本に、献辞を書いて私にプレゼントしてくれた。それが私が監督に会った最後である。
監督はもちろん犯罪小説作家として知られ、多くの著作を出しているが、『父よ』の原作が日本で出てたこと(白亜書房)をとても喜んでくれていた。この『父よ』はノン・フィクション文学に与えられる最高賞(ポール・レオトー賞)を受けているが、最新著作であり、監督の最後の著作となった「Mes
Grandes Gueules」も監督が亡くなる数日前に、やはり今年の映画関係の著作が受ける最優秀賞を獲得したらしい。
フランスの「ル・フィガロ」紙は大きく追悼文を載せていて、私が何度かお目にかかった頃の元気な監督のアップ写真が掲載されていた。まさかあんなに元気でエネルギッシュな人が、たった1年半後に亡くなるなんて、誰が想像できただろう。私たちは『父よ』公開の際に、これはジョヴァンニ監督の遺言のような映画です、と紹介していたが、監督もこの映画で監督人生のラストを飾ろうと思っていたことは明白だった。映画の中には監督から彼の父親に対する、人生の精算のような声が響いていたからだ。その声を監督は自らナレーションとして入れ、映画の最後に「父さん、またすぐに会おう」と、生前には理解しあえなかった父親に対して呼びかけていた。そして本当に、あっという間に父親に会いに行ってしまったのだ。『父よ』のラストの声は二重三重の重みを持ち、私の中でいつまでもこだましている。こころから冥福を祈りたい。
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セテラ・インターナショナル 山中陽子 |
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