エストニアが生んだ新しい才能が、ヨーロッパ各国で熱い注目を集めている。長編映画監督デビュー作で、ロカルノ国際映画祭のエキュメニカル賞に輝いた、イルマル・ラーグ監督だ。受賞作『クロワッサンで朝食を』は、ル・モンドを始めとするフランスの名立たるマスコミからも絶賛された。静かにしかし確実に広がり続けている感動の輪が今、海を越えて日本に届く──。
エストニアで母を看取ったばかりのアンヌに、パリでの家政婦の仕事が舞い込む。悲しみを振り切るように、憧れのパリへ旅立つアンヌ。しかし、彼女を待ち受けていたのは、高級アパルトマンに独りで暮らす、毒舌で気難しい老婦人フリーダだった。フリーダはおいしいクロワッサンの買い方も知らないアンヌを、冷たく追い返そうとする。アンヌを雇ったのは、近くでカフェを経営するステファンで、フリーダは家政婦など求めてはいなかったのだ。だが、遠い昔エストニアから出てきたフリーダはアンヌにかつての自分を重ね、少しずつ心を開いていく。やがてアンヌは、フリーダの孤独な生活の秘密を知るのだが──。
歩いてきた道も現在の境遇も全く違う2人が、反発を経て固い絆で結ばれる──大人のおとぎ話のような設定に見えて、リアルな感情に胸を揺さぶられるのは、ラーグ監督の母親の実話を基にしたストーリーだから。やがて2人は唯一の共通点だった悲しみと孤独との上手な付き合い方を見つけ、再び人生に輝きと歓びを見出していく。誰にでも訪れる人生のターニングポイントに、新たな世界へ踏み出す勇気をくれる、優しいパワーに満ちた感動作が誕生した。


 フリーダを演じるのは、フランス映画界の至宝、ジャンヌ・モロー。1950~60年代に、ルイ・マル、フランソワ・トリュフォー、オーソン・ウェルズ、ルイス・ブニュエルなど映画史に名を刻む名匠たちの数々の傑作に出演、自由奔放だが信念を持った新しい女性像を演じ、時代の寵児となった。その後は大作や有名監督にこだわらず、自らのセンスで選んだ作品に出演、歳を重ねるごとに、そのオーラは深みと凄みを増している。85歳にして久しぶりの主演を務める本作では、半世紀を超えて第一線を走り続けた大女優、ジャンヌ・モロー自身の生き様を惜しみなく注ぎこんだ圧巻の演技で、観る者すべてを魅了する。
 一方のアンヌを演じるのは、エストニアの個性派女優ライネ・マギ。ジャンヌ・モローに「彼女は、まさに発見です」と言わしめた逸材だ。結婚と離婚を経験し、子育てと母の看病に追われ、気がついたら人生も半ばを過ぎ、抜け殻のようになったアンヌ。そんな彼女が、パリで好奇心に満ちた少女の瞳を取り戻し、もうひとつの人生と出逢うその姿は、今を懸命に生きる日本の女性たちの、深い共感を得るに違いない。


 本作のもう1人の主人公、それはパリ。エストニアで雪に閉じ込められていたアンヌのパリへの第1歩は、古いテープに録音されたフレンチポップ「メランコリーというのなら」。「オー・シャンゼリゼ」で一世を風靡したジョー・ダッサンの名曲だ。パリへやって来たアンヌは、夜ごと街を散策する。自身もエストニアからパリに留学したラーグ監督がアンヌの目を通して、観光客には決して見せないパリの素顔に迫る。
 アンヌのパリの案内役となるフリーダの、本物のパリジェンヌの暮らしも見どころのひとつだ。フリーダが身に着けているシャネルファッションは、プライベートでも故ココ・シャネルと親交のあったジャンヌ・モローのすべて私物。フリーダの部屋には、シャネルの自宅にあったコロマンデル風の屏風が飾られている。その他、白のティーカップセットはウェッジウッド、60年代の手縫いのカーテンはイヴ・サンローラン。また、画家としても有名なパスカル・コンシニが美術を担当したカフェは、撮影後もそのまま使われている。
 おいしい“クロワッサンで朝食を”──それは日々の暮らしを大切に生きる合い言葉。幸せはきっと、そんな小さなことから生まれるはず──。