1906年10月14日ハノーファー生まれ。社会民主主義者のユダヤ人家庭で育つ。14歳の時に読んでいたカントとヤスパースをきっかけに、哲学を学ぶことを決心。マールブルク大学でハイデガーに哲学を師事するが、一時期は既婚者のハイデガーと不倫関係にあった。その後、フライブルク大学でフッサールに、ハイデルベルク大学でヤスパースにそれぞれ哲学を師事。博士論文はヤスパースの指導による「アウグスティヌスの愛の概念」(1928)。1929年にギュンター・シュテルンと初婚。1933年、ゲシュタポに短期間拘束された後、パリに亡命。ユダヤ人青少年のパレスチナ移住を支援する組織「ユース・アーリヤーYouth Aliyah」の資金調達活動に携わる。1937年にマルクス主義者ハインリヒ・ブリュッヒャーと出会い、シュテルンと離婚後、1940年にブリュッヒャーと再婚。同年、フランスのギュルス(グール)強制収容所に連行されるが脱出。1941年、母マルタと夫を連れアメリカに亡命する。その後、ユダヤ系ドイツ語新聞「アウフバウAufbau」にコラムを執筆しながら生計を立て、1944年よりヨーロッパ・ユダヤ文化復興機関で働き始める(のちに専任秘書)。また、この頃よりアメリカの女流作家メアリー・マッカーシーと親交を深めた。1949年から1950年にかけてドイツに帰国し、ハイデガーと再会を果たした。1951年にアメリカ国籍を取得、同年に英語による著作「全体主義の起原」を出版してセンセーションを巻き起こす。プリンストン大学やハーヴァード大学などで客員教授を務めた後、1959年にプリンストン大学初の女性専任教授に就任した。1961年、アドルフ・アイヒマン裁判を傍聴するためイスラエルに渡航。1963年、アイヒマン裁判のレポートをザ・ニューヨーカー誌に連載し、全米で激しい論争を巻き起こす。同年「イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告」として単行本化されたアーレントのレポートは、ホロコースト研究の最重要文献のひとつとなった。1963年シカゴ大学教授に、1968年ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ教授にそれぞれ就任。最晩年まで政治哲学の第一人者として精力的な活動を続けた。その他の重要な著作に「人間の条件」(1958)、「過去と未来の間」(1961)、「革命について」(1963)、「暗い時代の人々」(1968)、「暴力について」(1970)など。前夫シュテルンの従兄だった評論家ヴァルター・ベンヤミンの紹介にも尽力した。1975年12月4日、心臓麻痺によりニューヨークで死去(享年69)。
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高校中退後、1932年ナチス親衛隊入隊。1935年ユダヤ人担当課に配属され、ユダヤ人追放のスペシャリストとして頭角を現す。終戦までユダヤ人列車移送の最高責任者を務めた後、バチカン発行のビザと偽名を使い、アルゼンチンへ逃亡。1960年イスラエル諜報部(モサド)に拉致され、1962年絞首刑に処せられた。
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高校卒業前に徴兵され、その後ローザ・ルクセンブルク率いるスパルタクス団(のちのドイツ共産党)に参加。独学でマルクス主義やシェイクスピアを学ぶ。一時期は映画産業に従事していた。ナチス台頭によるフランス亡命中にアーレントと出会い、再々婚。アメリカ亡命後、高校中退ながら1952年バード大学哲学科教授に就任。妻アーレントの政治観に大きな影響を与えた。
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1923年マールブルク大学哲学科教授に就任。1924年から28年まで教え子アーレントと恋愛関係にあり、その間、主著「存在と時間」(1927)を執筆した。1933年フライブルク大学学長就任直後にナチス入党、ヒトラーを公然と支持した。戦後は教職から追放されるが、1951年に復職。1975年のアーレントの死まで、彼女とは一定の関係を保ち続けた。
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ドイツ・シオニスト連盟書記、世界シオニスト連盟総書記、ドイツ・シオニスト連盟代表を歴任。1926年、アーレントは同級生ハンス・ヨナスに連れられてブルーメンフェルトの講演を聞き、その後、両者は親交を深めた。1933年パレスチナ移住。死の直前、アイヒマン裁判のレポートをきっかけにアーレントと絶縁した。
19世紀中盤のヨーロッパで形成された反ユダヤ主義、19世紀後半から20世紀前半にかけて帝国主義がもたらした種族的ナショナリズム(人種主義)と官僚制を分析することで、それらがナチズムとスターリン主義という2つの全体主義の起原になったと結論づけた、アーレントの代表的著作。
アーレントがアイヒマン裁判のレポートで導入した概念。上からの命令に忠実に従うアイヒマンのような小役人が、思考を放棄し、官僚組織の歯車になってしまうことで、ホロコーストのような巨悪に加担してしまうということ。悪は狂信者や変質者によって生まれるものではなく、ごく普通に生きていると思い込んでいる凡庸な一般人によって引き起こされてしまう事態を指している。
1942年1月20日、ハイドリヒ親衛隊大将を議長とするヴァンゼー会議で正式承認された、組織的なユダヤ人絶滅計画のこと。アイヒマンが署名した議事録は、のちのアイヒマン裁判で本人が作成を認めた。この議事録は、ケネス・ブラナー(ハイドリヒ役)とスタンリー・トゥッチ(アイヒマン役)が主演した「謀議」(2001)でテレビ映画化されている。
アーレントがザ・ニューヨーカー誌に5回に分けて連載後、単行本化したアイヒマン裁判の記録。ユダヤ人自治組織(ユダヤ人評議会、ユーデンラート)の指導者が強制収容所移送に手を貸したとする記述が、内外のユダヤ人社会から激しく攻撃された。なお、現存する400時間以上の裁判記録映像(裁判開廷50周年の2011年4月11日、YouTubeに全巻アップされた)は、アーレントの著作を踏まえた形で『スペシャリスト―自覚なき殺戮者』(1999)として映画化された。 |
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